井伊直虎と直政

井伊直虎について

 井伊氏は、古くから遠江国井伊谷(静岡県浜松市引佐町)を基盤とした名族で、駿河の戦国大名今川氏の配下にありました。
 直虎は井伊家宗家である直盛の一人娘として生まれました。幼名はわかっていません。直盛は、父直宗の弟直満の子亀之丞と娘を結婚させて井伊家を継がせるつもりでいましたが、家老の小野和泉守政直はこれを嫌い「直満・直義兄弟逆意あり」と今川義元に訴え、義元は二人を誅殺。亀之丞にも危険が迫り、龍泰寺(直盛の死後は龍潭寺)の南渓の計らいで、信州の市田(長野県下伊那郡高森町)の松源寺に落ちのびます。このことは井伊家の一部の者だけが知る極秘事項で、亀之丞の突然の失踪に悲嘆した直盛の一人娘は出家してしまいます。次郎法師の名を与えたのは南渓でした。
 天文24年(1555)、20歳になった亀之丞は井伊谷に帰還します。直盛は娘が還俗して結婚し、井伊家を継いでくれるよう望みますが、その願いは叶いませんでした。次郎法師が還俗しなかった理由はわかっていません。亀之丞は直盛の養子として元服して直親となり、井伊家分家で有力な家臣である奥山朝利の娘を妻に迎えます。永禄4年(1561)この二人の間に生まれたのが虎松(直政)です。
 直盛は、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで討死。直親が井伊家当主を継ぐことになりますが、またしても小野政直の息子の小野但馬守政次は、今川義元の後を継いだ氏真に「直親が松平元康(家康)と結んで某反をおこそうとしている」と訴え、永禄5年(1562)直親は申し開きのため駿府に向う途中、今川配下の掛川城主朝比奈泰朝により謀殺されてしまうのでした。
 直虎は、井伊家の当主が不在、井伊家を継ぐ男子が直親の遺児虎松のみという異常事態に「女性地頭」となり、虎松を守り育てながら井伊家存亡の危機を救ったのです。

井伊直政について

 桶狭間の戦の翌年である永禄4年(1561)、井伊直政は遠江国井伊谷(静岡県浜松市引佐町)で生まれました。幼名は虎松。父の直親が謀殺されたとき2歳でした。今川氏らの追跡から逃れるために新野左馬助親矩や一族のはからいで、各地を転々とし寺院などで匿われるなど苦難の幼少時代を過ごしました。
 転機は永禄11年(1568)に、徳川家康が遠江に勢力を拡大したことにより訪れます。天正3年(1575)、15歳になった虎松は、南渓の計らいで徳川家康と対面、家臣となり井伊の家名再興を果たします。家康との対面に先立ち井伊谷の次郎法師が虎松のために衣装を整えて贈ったと『井伊家伝記』には記されています。
 元服した直政(22歳)を家康はしかるべき大将とするため、家康家臣の木俣守勝、西郷正友、椋原正直を家老とし、武田氏の滅亡により主を失った武田遺臣をまとめて直政の配下とし、新たな軍団を「赤備え」とするよう命じました。直政率いる赤備え軍団のデビューは、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでした。その後、直政は家康のもとで着実に戦功を積み、徳川最強の軍団へと成長していきます。
 慶長5年(1600)、豊臣秀吉没後の覇権争いは、天下を二分する関ヶ原合戦に発展します。この戦いで家康が勝利できたのは、合戦までに多くの味方を獲得できたからでした。その交渉の中核を担ったのが直政です。9月15日の関ヶ原合戦当日は、直政と娘婿で家康の四男松平忠吉が、先陣と定められた福島正則を抜け駆けし、開戦の火蓋を切りました。
 関ヶ原合戦の功績により直政には、石田三成の居城であった佐和山城が与えられ、上野高崎12万石を改め、6万石加増の上18万石となりました。合戦後も戦後処理に奔走した直政でしたが、慶長7年(1602)2月1日、合戦で受けた鉄砲傷がもとで、佐和山にて死去しました。享年42歳でした。