彦根城と特別展

玄宮園 げんきゅうえん

玄宮園は、江戸時代には「槻之御庭」と呼ばれていました。隣接する楽々園は槻御殿と呼ばれ、延宝5年(1677年)、4代藩主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと伝えられ、昭和26年には国の名勝に指定されています。現在は、庭園部分を玄宮園、御殿部分を楽々園と称しています。
玄宮園の名は、古代中国の宮廷の名によって命名されたと考えられます。園内を見渡す好所に建てられた数寄屋建築である「八景亭」の名から、一説に中国の瀟湘(しょうしょう)八景または近江八景を取り入れて作庭されたとも伝えますが、 江戸時代に描かれた「玄宮園図」に八景亭の名はなく「臨池閣(りんちかく)」と呼んでいたようです。そのほか玄宮園図には「鳳翔台(ほうしょうだい)」「魚躍沼(ぎょやくしょう)」「龍臥橋(りゅうがばし)」「鶴鳴渚(かくめいなぎさ)」 「春風埒 (しゅんぷうれつ)」「鑑月峯(かんげつほう)」「薩埵林(さったりん)」「飛梁渓(ひりょうけい)」「涵虚亭(かんきょてい)」の十景が付箋によって示されており、当時「玄宮園十勝」と呼ばれていたことが確認されています。

玄宮園は、広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。池の水は、湧水の豊富な外堀からサイフォンの原理により導水して供給し、小島の岩間から水を落として滝に仕立てていました。池には船小屋があり、園内で風流に舟遊びの一興を催すこともありました。また、松原内湖に面した庭園の北側には水門が開き、大洞(おおほら)の弁財天堂や菩提寺の清凉寺・龍潭寺への参詣、あるいは松原のもう1つの下屋敷である御浜(おはま)御殿への御成りには、そこから御座船(ござぶね)で出向いたようです。

楽々園 らくらくえん

楽々園は、玄宮園とともに彦根藩4代藩主井伊直興により建立された彦根藩の二の丸御殿で、槻御殿と呼ばれていました。現在は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。槻御殿の建っている場所は、松原内湖に面した広大な干拓地でした。江戸時代初期には、重臣の川手主水(かわでもんど)の屋敷があったとも伝えられていますが、御殿や庭園の普請にあたり、大規模な拡張工事を行ったと考えられ、その敷地面積は藩庁であった表御殿(現在の彦根城博物館)をはるかに凌駕しています。
井伊直興亡き後、倹約令などにより楽々園の建物は縮小気味に推移することが多かったと考えられますが、文化10年(1813)の11代藩主井伊直中の隠居に際して大規模な増改築が行なわれ、その後間もなく楽々園は最大規模に膨らみました。その大きさは現在の建物のおよそ10倍もありました。現存する「御書院」も、その際に新築されたもので、御書院に面して新たに「庭園」が築かれました。現在、枯山水となっている庭園がそれですが、古絵図を見ると満々と水をたたえています。

御書院の奥はしだいに渓谷の風情をなし、「地震の間」「楽々の間」などへと連なります。地震の間は耐震構造の建物であるため今日そのように呼ばれていますが、当時は茶の湯に用いる「茶座敷」でした。楽々の間も同様に数寄屋建築であり、12代藩主井伊直亮により、地震の間のさらに奥に増築されました。「楽々園」の名の由来ともなった建物であり、 煎茶の茶室として近年注目されています。