彦根城と特別展

楽々園 らくらくえん

楽々園は、玄宮園とともに彦根藩4代藩主井伊直興により建立された彦根藩の二の丸御殿で、槻御殿と呼ばれていました。現在は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。槻御殿の建っている場所は、松原内湖に面した広大な干拓地でした。江戸時代初期には、重臣の川手主水(かわでもんど)の屋敷があったとも伝えられていますが、御殿や庭園の普請にあたり、大規模な拡張工事を行ったと考えられ、その敷地面積は藩庁であった表御殿(現在の彦根城博物館)をはるかに凌駕しています。
井伊直興亡き後、倹約令などにより楽々園の建物は縮小気味に推移することが多かったと考えられますが、文化10年(1813)の11代藩主井伊直中の隠居に際して大規模な増改築が行なわれ、その後間もなく楽々園は最大規模に膨らみました。その大きさは現在の建物のおよそ10倍もありました。現存する「御書院」も、その際に新築されたもので、御書院に面して新たに「庭園」が築かれました。現在、枯山水となっている庭園がそれですが、古絵図を見ると満々と水をたたえています。

御書院の奥はしだいに渓谷の風情をなし、「地震の間」「楽々の間」などへと連なります。地震の間は耐震構造の建物であるため今日そのように呼ばれていますが、当時は茶の湯に用いる「茶座敷」でした。楽々の間も同様に数寄屋建築であり、12代藩主井伊直亮により、地震の間のさらに奥に増築されました。「楽々園」の名の由来ともなった建物であり、 煎茶の茶室として近年注目されています。